震災の記憶

もう21年も前になるんだと改めて思い出した。
1995年1月17日。時間は確か6時前あたりだったと記憶している。
もちろん眠っていた私は、なぜか怪獣に襲われる夢を見ていたことを鮮明に覚えている。
そして、その刹那大きな揺れが襲ったと思うとベッドの上に本棚が倒れてきた。
幸い安い本棚だったので軽かったことと布団がクッションになりかすり傷一つなかった。

頭の中で何が起こっているか理解できず狼狽しつつ、父と母と姉の様子が気になって部屋から飛び出た。
2階の部屋で生活していたので、廊下を進み階段付近に行くと、階下から父が
「みんな大丈夫か!」
と叫んでいたので
「大丈夫」と答えた。

1階に降りてみるとテレビは倒れ、食器は食器棚から散乱していた。
1階の部屋で母が寝ていたが、母の布団以外の部分に棚が倒れていた。
部屋の真ん中で寝るということは案外大切なことだと思った。

テレビはなんとか映ったので、テレビをつけて状況を確認するとどのチャンネルも緊急報道番組で震災の被害を伝えていた。

我が家は宝塚市にあり、震源地から近いものの淡路や神戸より被害はかなりましなほうだった。
それでも六甲山脈の端に位置していたので、近所のテニスコートは落盤し姿を消していた。

大学2回生の私は1月17日はちょうど試験の日で、この試験をパスしないと3回生になれないという運命の日だったので、着替えて家の隣にある大学まで行きテストの有無を確認した。
もちろん大学内も大騒ぎの状態で
「こんな日にテストがあるわけないでしょ!」
と当たり前のセリフで一喝されたので、スゴスゴと自宅に戻り唯一眠れる母の布団に潜り込んだことを覚えている。

ライフラインは電気は通っていたが、水道、ガスはストップ、携帯電話もほぼ通じない状態だったと思う。

数日し、父と母の勧めで、母と姉と私は母の実家の大分でしばらく生活することにした。
ただ、大分に着いてからなんだか大変な場所をほっておいて逃げてきたという気持ちになり、宝塚に戻りたいと懇願した。
母は余震やライフラインの切断により私が行っても何もできない、なにより身の心配をしてくれ止めたが、叔母が私の気持ちを察して母を説得し宝塚に戻ることができた。

何もできない19歳の若造で、安っぽい偽善心で戻ってきた私は、案の定なにもできなかった。
ただ、一人仕事に行っていた父は、やはり一人は寂しかったのかよろこんでくれた。

幸い、宝塚の家は購入したところで、それ以前に住んでいた西宮のマンションが売れる前だったのでしばらくは西宮のマンションで寝泊まりをした。
宝塚の家は半壊となり、避難勧告が出ていたため住むことができなかった。

父が仕事に行っている間、私は西宮から車で宝塚市役所に行き、水をポリタンクに入れ、宝塚の家に行き、少しづつ片付けをして生活をした。
普段なら30分もかからない行程だが、震災による道路の寸断や市役所に人が殺到していることもあり往復で5〜6時間ほどかかって移動した記憶がある。

それからどのくらい経ったか覚えていないが、宝塚の家の避難勧告も解け、母も姉も戻ってきたが、宝塚市のガス普及率が97%になっても我が家にはガスが通らなかった。
お湯を沸かして、電気で保温する機械でしばらくお風呂に入っていた。

もう21年前の記憶なのですごく曖昧で断片的だけど、なぜだか嫌な感じはしない。
震災でご家族を亡くされた方には申し訳ないけれど、私は幸い震災で家族を失うことはなく、震災という苦難に対して家族で協力して乗り越えたから嫌な感じがしないのだと思う。

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